「エレファント・マン」(1980)でアカデミー賞8部門にノミネートされたり、日本でも大ヒットした「ツイン・ピークス」(1990-1991)などの数々の代表作があるデビッド・リンチ監督。筆者個人的にもツイン・ピークスは大好きですね。
今回はリンチ監督の「大きな魚をつかまえよう(リンチ流アート・ライフ∞瞑想レッスン)」(2012)という本の中から気になった言葉をピックアップしてご紹介したい。
この本は監督の発想術についての本というか、監督が長年実践している「瞑想」の話を中心にしながらあの自由な発想の映画のアイデアをどのように思いついたのかについて記している。
その中から、このブログでは監督が自分が作る映画作品というものに対してどういう考え方を持っているのかが分かる箇所を抜粋したい。
『デューン 砂の惑星』を作っている時、私はファイナル・カットの権利を放棄せざるを得なかった。その悲しみははかりしれない。なぜなら魂を売り渡したと感じていたし、・・・(中略)作り手の中に作品は生き続けるんだ。(中略)映画監督が思うように映画を作れないなんて、馬鹿げてる。でもビジネスとしてはよくあることだ。(中略)製作者がきみに映画を作る権利を与えたなら、きみのやり方を彼らは保障すべきだ。映画のあらゆる要素、セリフの一字一句、音響の一音一音、上映終了までの途上にあるすべての事柄は、映画監督が決定すべきだ。そうでなければ一貫性を保つことはできない。(P76-77)
先日読んだ押井監督の本に書かれていたが、ハリウッドでは結末をどうするかについて監督ではなくプロデューサーが権利を持っているらしい。それに対し、リンチ監督は反対の考え方を持っているようだ。なかなかいい言葉が見つからないが、完璧主義というか(別に悪い意味で言っているわけではない)完全に作品をコントロールしたいという気持ちが強く出ていて、リンチ作品のいちファンとしてはすごく納得がいく一節だ。
そして、上記の一節と対になるような興味深い箇所も見つけたので紹介したい。
好きな言葉に「世界はあなたしだいだ」というのがある。映画も、あなたしだいだ、と思う。(中略)映画は観客を拠り所にしている。観客から映画に、映画から観客に至る円環がある。観客の一人ひとりが見て、感じて、自分自身の物事に対する感覚を受け止める。たぶん、私とは心奪われる場面も違うことだろう。だから、人々の心を打つにはどうすればいいかなんて、誰にも分からない。(P34)
作品の完成に対しては細部に至るまで責任をもってコントロールしたい、というのが最初に紹介した文章の内容だ。一方で、その自分が隅々まで気を配って制作した作品の解釈については、リンチ監督は、完全に放任する、というか、観客に任せてしまう。おそらくリンチ監督にとって、映画というのはひとつの完成され閉じた「世界」で、形でいえば球体のように完全である。それはもはや手の入れようがなく、監督にできることはそれをそっと持ち上げて観客の手に渡すこと。それだけしかできない。ちょっと比喩が入ってしまったが、そのような場面を想像してしまった。(2つ目の文章の中に円環という言葉が履いていることに影響されたんだと思います)
ちょうど最近少しずつ「ツイン・ピークス」を見ていて、なかなか進まないのですが、改めてこのリンチ監督の言葉を反芻しながら鑑賞しようと思う。それが終わったら2017年のツイン・ピークス新シリーズも見なくてはと思う。