「機動警察パトレイバー」「攻殻機動隊」の監督として知られ、世界の様々な映画祭にも出品している押井監督。筆者の世代としては「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」の映画が非常に印象に残っている監督。アニメ雑誌などもそのころ読んでいましたが、押井監督の記事は言葉に切れがあって面白く読んだことを記憶しています。
今回は押井監督の著書「仕事に必要なことはすべて映画で学べる」(日経BP 2013)から、押井守監督の「造る人の言葉」をいくつかピックアップしたい。
この本は出版社が日経BPというだけあり、本論は自作以外の映画を紹介しながらの押井監督の仕事論である(形式は記者との対談形式)。本記事ではあえてそこではなく、監督ご自身の映画製作の実践の部分に関わる言葉を引用する。
先ほども明記したように、この本は仕事論の本である。押井監督は冒頭で、「勝負」の観点で仕事について語っている。
あるときから組織マネジメントにおける「勝敗」についてずっと論じてきました。
(P2)
こう解釈されたくはないかと思いますが、勝敗論は幸福論と読み替えてもいいと個人的には思いました。(と思ったら本の最後のほうで監督自身が幸福論と言い換えていました)
つまりは、どうハッピーで充実した仕事人生を送るか。また、そのための成功。
なので、基本的に監督がここで語っていること、私がここで引用する文章は勝利につながる方法論です。
押井監督が映画監督の勝利条件=成功条件を語っている箇所。
押井 僕の場合は明快で、監督個人の勝利条件というのは次の1本を撮る権利を留保する、すなわち絶えず次の企画のオプションを持ち続けるということです。自分が温めている企画は他人ではできません、自分じゃないとこの企画は実現しませんよということを絶えずちらちら出すしかない。
仮に企画だけちょうだいと言われたとしても、その企画が別の監督ではできない理由を考えなきゃいけない。一番手っ取り早いのは、自分で原作を書くことです。(P257)
撮り続けられることこそが映画監督としての取るべき道だという監督の哲学は、読んでいて非常に快く胸に響きました。
僕は自分の金では絶対映画を撮らない主義です。他人様の金で映画を作って、自分のスタッフにも基本的にやりたい放題やらせる。それでもなお「自分の映画」にするにはどうするのか、ということしか考えていません。自分自身が自分のリスクで何かしでかそうとは全然思っていない。言ってみれば「飛べ!フェニックス」のパイロットになる気もなければ、乗客になる気もない。砂漠の中で壊れた飛行機の再生のために、ちゃんと設計図を書くドイツ人の立場です。(P44)
監督というのは結局、お呼びがかかるのを待っているだけなんです。「これやってみない?」と言われた時に「やる」と言う、それだけです。その時に「その代わり好きなものを撮っちゃうからね」というワガママが通るかどうかが重要なんであって、やりたいことが通らないのなら100億円でもやめておけば、というのが僕の考えです。ここは誤解を招きやすいのですが。(P137)
監督は人に使われているけれど、ある種の職人性など代替不能な部分を持っている。だから監督が代われば映画が変わってしまう。つまりやっていることは中間管理職そのものだけれども、監督しか自己実現はできないんです。プロデューサーでは自己実現ができません。
スピルバーグやキャメロンがプロデュースだけ参加した作品が彼らの作品なのかと言えば、絶対にそうならない。やはり自分で現場をやってこその自己実現です。会社のトップに立つこととは意味が全然違う。監督だけじゃなくて、そういう職業ってほかにもあると思います。(P254)
押井監督が「組織マネジメントにおける『勝敗』」」と言う言葉をこの本のテーマとして使った理由がここで見えてきます。
映画というのが極めて大規模なお金の必要な「ビジネス」である、ということが背景としてあるのだと思います。絵を描いたり作曲したり小説を書いたりするのとはまったくわけが違う。億単位の規模のお金が動くわけだから、そのビジネスを運営していくには組織構造というか、資本主義でいう資本家と労働者の構造があったほうがよい。映画監督はその中で労働者に属するが、造るものが映画という芸術性の高いものであるから、そこには再生産できない唯一無二の要素、その労働者(監督)ではないとダメだという要素が存在する。そういった構造を理解した中で、映画監督がどう監督人生において「勝利」するのか、それが先に引用した「撮り続けられること」なのだと押井監督は言っています。
今回は映画を造ることのリアルな現場に関することではなく、もっとマクロな視点で、映画監督という造る人がどうやって人生を歩んでいくべきなのかについての押井監督の見解の言葉を紹介しました。撮り続けることこそが勝利=幸せ。胸に刻みたいと思います。