タイトルを真に受けてしまい、大変失礼ながら本当に映画を撮ったことがない人(映画評論などで活躍される方など)が映画について語るエッセイかと勘違いして手に取ったが、そういえばこの神山健治さんの記事は雑誌STUDIO VOICEに連載されていたのを何回か見かけて読んだことがあった。あのエッセイの書籍化だったかとあとで気づいた。
「批評する人の言葉」とは違う、「造る人の言葉」の一つの形として、すごくリアルな形で神山さんが映画の世界に入って監督になるまでの話や、映画制作の作法についてがこと細かく書かれている。きっとほかにも映画作法の本はあるのだろうが(知らなくてすみません)、映画業界にどうやって入るかについてまで書かれた本はないのではないかと勝手に想像している。
いくつか引用して紹介したいと思う。
ちょうど前回のブログ記事で短編映画(ショートフィルム)について言及したが、偶然今回手にした本で「短編」について神山さんが語っていた。(本題とは外れるが、読書をしていると、ある疑問について、特に本の中で探そうとはしていないのに、答えやヒントが偶然読む本の中に存在していた、ということが自分には起きる。)
—『ひるね姫』を制作したことで、あらためて「映画」について考えたことはありますか。
神山:今回実感したのは、映画って長編といいますが、実質は短編だなということです。脚本レベルで言うと、ショートショートみたいなものだなと。そう思って昔のSF映画を思い出してみれば、確かにみんなショートショートなんですよね。そこに登場人物がどういう人間かを見せていくことが加わるのでボリュームが増えていくわけですけれど。だから長編というより短編だと思って思考したほうがいいな、と。とはいえ全部で1500カットあると、物量的には長いな・・・・・・とは思います(笑)。・・・・・・(略)(P287)
映画は2時間のものでも小説では「短編」だという話。確かに、長編小説を映画化したものを見ることがあるが、大体は相当大胆に省略をしているなと個人的にも思っていました。だとすると、短編「映画」はもっと短いものだということだろうか。
それともうひとつ引用を。ここは非常に共感。自分が普段(企画やその企画の実施の)仕事をしていて、自分の想像の範囲内に結果が収まることについて思うこととシンクロしていた。庵野秀明監督との対談の内容で、庵野監督の言葉から。
庵野:イメージどおりにしかならないのは、物足りないんですよね。特に絵コンテを自分で描いちゃうと、自分がイメージした以上のものにはなかなかならないです。もちろんすごいアニメーターの人が、自分のイメージ以上の芝居を描いてくれるとか、声優さんの声が入ってすごいいいカットになったとか、背景がすごく良くなったとか、そういうブラッシュアップの過程でイメージを超えることはあるんです。でも、そのカットが必要な情報としては、最初に自分がイメージした以上のものは入ってこない。自分のイメージって、大体絵コンテ描く前に頭の中にできちゃうんですよね。そうすると、自分で絵コンテを描いても、想像の範疇をまったく超えないものがそこにあるだけなので。
—–予定調和になってしまうわけですね。
庵野 自分が考えたことのないようなものが出てくるほうが、やっぱり映像としてより面白くなってくるんですよ。だから、最初はなるべくほかの人に絵コンテを描いてもらうようにしています。絵コンテを作品の検証点と設計図としている宮崎さんからは「コンテを自分で描かないとは、信じられない」と言われたりしますけれど(笑)。それは宮さんは原則自分の作りたい映像を作っているからなんですよ。僕は常に、より面白い映像を作りたいんですね。(略)僕は、作品を集合知にしたいんです。(P284)
面白いのは、宮崎駿監督は、その逆で、自分の想像の範囲に収まる、というか、自分の想像をアニメの形に定着させることが目標となっていること。そういうやり方の人もいる。
「造る人の言葉」は体験から出てくることが多く、リアルであり、また、それぞれの体験が同じでないゆえに、正解がひとつではない。そこが面白いと思う。