インタビュー

インタビューって昔はきらわれていた

インタビューって昔はきらわれていた

こんなインタビューを見つけました。

「お金どうしてるんですか?」嫌がる藤田晋に無理やり資産運用について語らせた

 

インタビューに関する古典的な本がありまして、その名も「インタヴューズ」。文庫で3巻シリーズで出ています。

基本はインタビュー集で、19世紀から20世紀にかけてのインタビュー記事のアンソロジー。インタビューというのは19世紀中ごろに生まれた手法で、なんとこの本にはマルクスのインタビューが載っていたりと、結構びっくりします。1冊読んでみたのですが、インタビュー記事に入る前の冒頭の章に、序(100ページくらいある「序」ですが)としてインタビューに関する考察があり、インタビューが世の中に(特にインタビューを受ける側に)好意的に受け入れられてはいなかったことに触れています。

 

インタビューが社会評論家たちの攻撃の的にされたもうひとつの理由は、それが女性が男性と対等に競い合うことのできるジャーナリズムの一分野だからであった。ジョン・ケアリー教授はその著書『知識人と大衆』のなかでつぎのように指摘している。「一部の男性知識人たちにとって、大衆新聞の嘆かわしい一面はそれが女性を鼓舞したことだった・・・」(P35)

 

ウィルソン・ミズナーは1916年に女性インタビュアーのジューナ・バーンズに向かって叫んだ。「きみはオフィスへ着くまでずっとわたしから知的略奪を続けるつもりかね?これまでに惜しげもなくきみに与えた言葉の宝石だけで、首飾りができるほどだぞ」(P38)

 

オリアナ・ファラーチは、自分のインタビューをほかのありふれたインタビューとは区別しつつも、インタビューは「書くよりははるかに容易である・・・他人の“花”をもらってそれを自分のものとして売ることができるから」と認めている。(P38)

 

要はどういうことかというと、メディアに記事を掲載する際に、インタビューというのは手軽な方法として普及した。取材の数は少なくていいし、インタビュイーから話題になりそうなことを聞き出し、それをメディアに載せて記事にする。取材する側にとっては手軽に人気記事になる方法だが、インタビュイーのほうはあれこれ聞かれ、たとえば読者は喜ぶかもしれないが聞かれるほうは気分が悪くなることを聞かれていい思いをしない。そういう点が問題になっていたそうです。

別の本ですが、チャールズ・ブコウスキーというアメリカの作家(1920-1994)の「死をポケットに入れて」(河出文庫)という日記の中で面白いエピソードがあります。あるドイツ人がドイツのメディアの記者としてインタビューをしたいというのでアポを取ってきた。ブコウスキーはその日彼を自宅に招き入れ、しばらくインタビューを受けた。酒も入っていい感じになったところでとつぜんドイツ人は告白をはじめ、実は作家であるブコウスキーに話がしたかっただけで、実は自分は記者でもなんでもないといいうのだ。なんかすごい話ですよね。今ならインターネットでそのメディアが実際に存在するかはすぐ調べがついてしまいますので、こんなことは起きづらいのかなと思いますが。

最近はインタビュイーによる原稿のチェックなどを行うようになったと思うので、インタビュー黎明期に多発していた問題は起こりにくいかもしれません。相手を怒らせるようなインタビューが行われてそれが掲載されるってあるんですかね。

というような意味で言うと、冒頭に紹介したインタビューは珍しいというか、(おそらく仕事上の関係があるメディアからの取材なのである程度合意の上だと思いますが)インタビュイーを不機嫌にさせるインタビューということで、レアです。藤田社長の懐の広さというか自然体さにはほんと頭が下がりますね。でも注目すべきはそこだけでなく、そんな不機嫌になるインタビューの中でお互いにテーマについて「発見」をするところ。不機嫌になっても続ける価値があったインタビューではないかなと思います。私も読者として発見を共有でき、勉強になりました。どんな発見があったかは記事を読んでくださいね。

 

 

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