インタビュー映画

瀬々敬久監督インタビューより 早く映画監督になるために選んだ道

瀬々敬久監督インタビュー

前回に引き続き、「映画の言葉を聞く」から、瀬々敬久監督のインタビューを今回取り上げたい。

「ヘブンズストーリー」(2010)「アントキノイノチ」(2011)「64 ロクヨン」(2016年)などを手がけ、そのほかにも多様な作品を監督、そして自主企画として手がけ2018年に公開された「菊とギロチン」が話題となり、第21回釜山国際映画祭内の企画「第19回アジアン・プロジェクト・マーケット(APM)」に選出された。

そんな商業的なヒット作から芸術的な自主企画作まで幅広く、非常に精力的に映画を撮り続ける監督の言葉から印象に残った箇所をいくつか引用させていただこうと思う。

 

いろいろな監督について調べていると、ときどきピンク映画出身という方がいることに気づく。瀬々監督もそうである。

 

 その方(社会人になりたてのころ助監督をしたときの、助監督チーフ)が言うには、ピンク映画は三年ほど助監督をやれば監督になれるのだと。それで上京して、滝田洋二郎監督が所属していた獅子プロダクションに竜二さん(山本竜二 ピンク映画俳優)の紹介で入ることになりました。そこで三年間の助監督経験を経て、1989年に最初の監督作になる「課外授業 暴行」という作品を撮りました。(P227)

 

 それまで(監督が高校生だった1970年代よりも前)の映画監督というのは、大きな映画会社に入って、そこの撮影所で十年くらい助監督として徒弟制度のように修行を経て、やっとなれるようなものだった。いわゆる撮影所システムというものですが、当時はそれが崩壊しかけていた時期だったんです。(P228)

 

(ピンク映画業界は)貧しいけれど自由に好きなものが撮れるというところで、誰もが情熱を傾けていたのだと思います。(P229)

 

ピンク映画は、3年助監督の修行を積むと監督になれるという登竜門的な場だったのですね。ピンク映画はおそらく需要が安定している市場で、安定して供給をする必要があるからどんどん経験を積むことができるということなのかなと想像しました。とにかく「仕事ができる、映画が撮れる」ということが監督にとって非常な喜びだったんだなと想像しました。その貪欲さというか、どんなテーマでもいいから撮りたい!という造る人ならではの強い衝動が伺えます。

 

瀬々監督は実際に起こった事件などをモチーフにした映画を撮ることが多い監督で、そのような一貫した底流を持ちながらも、作品を実際に撮るときには、俳優の演技に対してどうしているかという質問にはこのように回答している。

 

(映画「64ロクヨン」の話題でどのように芝居の指示をするかと聞かれて)

基本お任せですね。まず脚本のまま軽く演技をしてもらって、それを見てカメラの位置を決めます。監督を始めたころは新しいさつえいほうほうとかを意識しましたが、今は俳優の芝居をいかにゲットするかを重要視してます。広報官が記者クラブを前に被害者のことを語る前編の山場では佐藤浩市さんに向けてカメラを3台、次は記者側を3台のカメラで同時に。そういう撮影方法です。(P235)

 

この箇所を読んだときに私は意外だなと感じました。瀬々監督は言ってみれば(多様な作品を撮りつつも)一本筋が通ったタイプの監督で、自分ですみずみまで作品全体をコントロールするのかなと思ったのですが、そうではなく、演技に関しては俳優にお任せをするという。この引用の後に続く言葉で「基本的に役者さんというのは芝居を一番考えている人ですから」という言葉が出てくる。もちろん作品をコントロールすることはするのだが、監督とて全能ではなく、多くの人が結集して作られるのが映画だから、やはりそこは専門家の力をうまく借りていいものにしていく、ということなんだなと改めて思いました。逆に言えばそのように専門家の力をうまく借りながら監督独自の世界観を持った作品を造っていくというのはすごい仕事ですね。

 

 

 

 

 

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